当惑の掃き溜め

日々、そして長らく宿している雑然とした心持ちからしょうもない愚痴まで吐露する場所

体型のアポリア

体型へのイメージ

 現代社会において、太っているのは大きなディスアドバンテージだ。自分はそれを体験して学び、嫌というほど味わい、合計20数kgのダイエットをした

 

 テレビのバラエティではふくよかな体型の芸能人はそれを笑いの種にされて弄られる。とりわけ女性の芸能人は「女を捨てている」と揶揄される。ゴシップ誌では女優やアイドルが少しでもふっくらすると「激太り」という言葉を添えて無駄に囃し立てる。ファッション誌や少女漫画コミックではダイエットの特集が組まれる(そして表紙のモデルもヒロインも皆細身だ)。インターネットでは「摂取するだけで痩せる!」という宣伝文句を掲げた胡散臭い薬の広告が溢れ返っている……。

と、例を取り上げると枚挙に暇がないが、『太っている=笑いものにしていい存在。脱しなければならない、またはなってはいけない状態』というメッセージが日常生活で随所に顔を出す。

 

 

冷やかされる日々

 突然だが、子供は大人の真似をしたがるものだ。真似、模倣を通じて帰属意識が芽生え、社会性を身に付けていくのだそうだ。そして、周囲の人が太っている人を弄っているのを見たら、それの真似もする

 

 物心がついた頃から太っていた自分は、弄りの恰好の的になっていた。登下校の度に上級生からも下級生からも「デブ」「ブス」「キモい」等と嗤われた。クラスでも常に視線を感じ、居心地の悪さを覚えた。

 太っていると運動ができない傾向が強い。自分にもそれが当てはまり、泳ぎ以外はからっきしだった。走るのも遅ければ逆上がりも二重跳びもできず、跳び箱でも上に乗ってしまう。特に団体スポーツのチーム分けでは悪い意味で『調整係』を務めており、チームにいると煙たがられていた。体育の授業は大嫌いだった。

 

 母の「学校の水泳教育では不十分だ」という理由で通わされた水泳教室。水泳自体は当時唯一マトモにできるスポーツで好きだったが、着替え中に男児2人から「デブぅっちょデブっちょふーとおってるー」と体型を揶揄する即興の歌を浴びせられた。以降行くのを嫌がるようになり、親と喧嘩する事態にまで陥った。

 

 

唯一の反撃方法とそれの剥奪

 こんな自分であったが、常にボロクソに言われ放題好きにされ放題だったわけではない。幸か不幸か地声が大きく低かった自分は、面と向かって馬鹿にしてきた相手にはその声を利用して「なんだって?」「もういっぺん行ってみろ」等と突っぱねる技法を使っていた。効果はそれなりにあった。

 しかしそれも母に「周りから嫌われるからそんなことをしては駄目だ」と制止された。また、母も自分と同じく太っていたため「お母さんと一緒にダイエット頑張ろう」という言葉も添えられた。家族が大好きな自分にとって、この言葉は効果覿面だった。

 それ以降はこの手法を使わず、いつどこでどんな酷い言葉が投げつけられるのかと常に怯え、縮こまるようになった。回顧すると、知らず知らずのうちに猫背になっていってたような気がする。

 

 学習塾でも例に漏れず他の塾生から体型を貶された。前述の出来事で完全に牙を抜かれた私にはただただ悔し泣する以外何もできなかった。

そんな自分に助け舟がやってきた。塾の先生だ。先生は様子を見るやいなや、彼らを厳しく叱責してくれたのだ。その後も先生は自分に「虐められていないか?」「もし何かあれば先生に言ってくれよ」と励ましの言葉も送ってくれた。重く暗い気分から一時的に解き放たれ、一筋の光が見えた気さえした

 何故最低でも勉強の成績以外の面倒は見なくても構わないはずの塾の先生が一番自分の心に寄り添ってくれたのだろう。どうして学校の先生や親は苦しみや怒りを分かち合ってくれなかったのだろう。

 

 中学でも相変わらず体型いじりに遭った。「お菓子食べたいけど食べ過ぎたらあんな風になっちゃう」「これは痩せられないデブだな」と登下校中嘲笑交じりで後ろから言われる経験もした。

特に制服を着なければならないのが苦痛だった。細身でなければ上手に着こなせないデザインだったからだ。そして相変わらず抵抗不可能な自分は、体型を茶化されるたびに涙目になりながら体を縮こませるのであった。

 

 

突然の決意

 そんな暗澹とした日々を過ごしていた最中、中3にして唐突にダイエットしようとブヨブヨに弛んだ腹を固めた。当時はとにかく今のままでは駄目だ!とがむしゃらに踏ん切りをつけた。

動機は好きな人に振り向いてほしいから、パートナーに痩せてほしいと言われたからという甘酸っぱいものではない。サイズの関係で着用が叶わない好みの服を着られるようになりたいという瀟洒なものでもない。少しでも侮辱される状態(=肥満)から脱却するため。精神的苦しさから解放されるためにダイエットをした。今になって思えばこれは、不安と焦りによる一念発起だ。

 

 肥満から標準体重への減量は容易だった。当時10代だったのもあってか、昼食のお弁当のサイズを小さくし、間食を摂らない。この二つを習慣化しただけで高1の終わりにはBMIの標準にまでは痩せられた。

平均的な身長なのが功を奏して、既製品のサイズの服が着用できるようになったが自分にとっては些事だ。最も『安心』したのは以前より奇異の目で見られる気配が激減したことだった。

それでもなお、体型への弄りを通りすがりにされる機会に幾度か遭い、再びダイエットをする決意をした。朝ご飯の食パンや夕食のご飯の量を半分にし、なるべく外出は徒歩でするよう努めた。すると大学生になる頃には所謂美容体重になっていた。

 

 大学生になりようやく自身の体型への誹りは耳にしなくなった。それでもなお、すれ違う生徒全員が自分よりスマートに見えたのをきっかけに焦燥感に駆られ、SNSで話題の『炭水化物抜きダイエット』をしようとしたが、家族から「これ以上の食事制限は許さない」と咎められたため、減量は渋々止めた。大学が遠く敷地も広大だったのが幸いしてか、この間は歩行時間が長かったため体重の増加はなかった。減少もなかったが。

 

 成人式に振袖を着るか否かで家族と一悶着あった。始めは着るつもりは毛頭なく、(理由は後述)「私みたいなのが着てもねぇ」と遠回りに拒否の意思表示をしていた。しかし祖母のどうしても見たいという希望と、両親が祖母の味方に付いたため勝てる見込みが皆無になり折れて仕方なく着た。

記念写真の撮影で写真の選別をするのだが、髪を簪で結い上げていたのでコンプレックスの丸顔がよく目立つ。赤系統の振袖だったのも相まって某女性芸能人の振袖の写真が脳裡を掠めた。こうなるのを予想できたので、振袖の着用を忌避していたのだ。心を無にし、「写っているのは赤の他人」と自己暗示を掛けながら一番マシに見える写真を選んでいった。

 

 

ダイエットへの没入

 社会人になり、配属部署の関係で一人暮らしをするようになった。これを契機に自分は三度目のダイエットに傾倒していった。実家では家族と同じ食事を摂らなければならなかったが、一人暮らしであれば自分の好きなように食事が選べる。食事制限をしても誰からも文句を言われない環境を獲得し、よりストイックなダイエットに嵌っていった。

 炭水化物を抜いた夕食は当たり前で、食品を購入する基準もカロリーが低いか否かで選別していた。社内食堂でもかけそばと副菜の野菜以外は頼まない。SNSの『ダイエット中に食べて良い食材、食べてはいけない食材』『オススメ低糖質食品』『ヘルシーに見えて実は太る食べ物』という見出しの投稿を参考に自炊した。

食事制限のみならず、ハードな運動も開始。ボクシングのゲームを購入し2,30分するのを日課にした。本当は好きなもの好きなように食べたかったが、その気持ちは心の奥底に封じ込めた。

 

 最早食事は小さな我慢を積み重ねる作業と化していたが、体重計に乗るたびに減っていく数値を目にする快感と高揚感がそれに勝った。そして実家に帰るたびに、家族から「痩せたね」と指摘され満たされた気持ちになった。後に判明したが、これは心配のニュアンスで口にした言葉で、褒める意図は皆無だったという。

 

 今年の頭に健康診断を受けた。体重は最も太っていた頃から20数kg減少しており、最低体重を更新した。やはり快感と高揚感に襲われたが、翌月貰った診断結果表には「痩せによる再診を推進する」とあった。

 結果にまず私は困惑した。SNSでは自分よりも高身長で更に痩せている人がいる。世間で綺麗、美人とされている人(役者さんやアイドル、それ以外の人までも)は揃って痩せている。

一方で痩せていない人たちは健康とされる標準体重であっても太っている=醜いとみなされる。実際に自分がその仕打ちを受けたから熟知している。

痩せている=正、痩せていない=悪ではないのか?

 

 

『世間からどう見られているか』

 先程の意見に「自分は痩せている体よりふっくらした体の方が魅力的だと思う」と、太っている人への励ましとして時折こういった内容の発言をする人を見かける。

実際にSNSで体型の話題で盛り上がった際に、同様の投稿をしていたフォロワーも散見された。誠に申し訳ないが、自分にとってそれは励まされるどころか慰めにもならない(人によっては効力を発揮するかもしれないが)。

付け加えると、その人個人の意見を気に留められない。『世間からどう見られているか』が重要なのだ。始めに書いた通り、世間では太っている人への風当たりが非常に強く、良くない状態だとみなす。これは紛れもない事実だ。

 あくまで自分は相手の見える、聞こえる範囲で容姿を貶める発言を控えてほしかっただけだ。太っている体を魅力的、素敵と認識してほしいなんて無理強いはしない。これさえ守ってくれるのなら、頭の中や心の中でいくら毒突いてもらっても構わない。内輪で「今日歩いてたらこんなデブな奴みかけてさー」と話の種にするのを止めるつもりも全くない。

 

 さて、私は医者の指示と世間の指示、どちらに従えばいいのだろう。医者にしつこく忠告されるのも癪だ。だが世間の指示に従えば警告は止まらないだろうし、下手したら入院まで勧められるかもしれない。

かと言って世間の意向に背いて医者の指示に従えばまた昔の、体型を馬鹿にされていた頃の自分に逆戻りだ。ボールみたいにまん丸の顔、グローブの手、醜く膨らんだ腹、丸太の脚を再び持つのは真っ平ごめんだ。完全に『行き詰まった』。